こだわりものさし
今日、カウンセリングで聞いた話がとてもよく腑に落ちたので、整理と読み返しのため書き残す。
人それぞれのものさし
人は誰しも、自分の考え方の基準となるものさしを持っている。
同じ事象に対して、人によって感じ方が違うのは、ものさしの形状が様々だから。
ものさしが他人と完全一致することはありえない。
健康的な考えを持つ人は、それを当然の事実として認識している。
一致しない部分があっても、その人の個性として尊重しながら人付き合いをしている。
他人の人格に対し、自分のものさし
付き合いが浅い頃は、無難に付き合うために合わせる
けど、付き合いが長くなるとだんだん本来の人格が出てきて、はみ出る。
このはみ出た部分を許容できるかどうかが、普通の人と私との違いである。
ものさしの押し付け
私のものさしに一致する人としか仲良くしたくない。
ましてや、夫婦なんてなおさら、合わないもの同士はやっていけない。
私はカウンセラーに指摘されて初めて、そんな考えを持っていることに気付いた。
思い当たる節はありすぎるほどある。
良くしてくれる先輩を自分の中で神格化して、少しでもダメな部分が見えたら勝手に幻滅したり。
自分とノリが合わない同僚を勝手にクソ野郎認定して関わらないようにしていたら、そいつがどんどんいろんな人と親しくなっていって、疎外感を感じるようになったり。
特に夫に対しては、異なる考え方がぶつかり合ったとき、自分の考えを理解してもらおうと必死で説得したり、逆に相手の考えを理解しようと必死で質問責めしたり、どうにか2人の考えをイコールに持ち込もうとしていた。
違う考えを抱いたまま一緒に生きていくなんて、不可能だと思っていた。
違いがあれば、どれだけ話し合ってでも埋めるべきだと思っていた。
話し合っても埋められらない溝ができるたび「この人とはうまくやっていけないのではないか」と絶望的な気持ちになった。
だが、そんな理想を追求すればするほど苦しくなるのだと聞かされた。
そうやって無理矢理にでもはみ出しの矯正を繰り返していると、一致している状態を当然と感じるようになり、ますますはみ出しが気になってしまう。
やがて、ほんの些細な違いすら許容できなくなってしまうのだという。
私はもう、その境地に至ってしまっているのではないか?と恐ろしくなった。
ものさしの押し付けは、何一ついいことがない。
ものさしで相手と自分の違いを測るのは良い。
自分が納得できるなら、相手のものさしの形に合わせて自分を曲げてもいい。
でも、他人を無理矢理曲げることだけは、絶対にしてはいけない。
他人は天気のようなもので、自分の意思では変えられない。相手は圧力をかけられて苦しいし、自分はなかなか思い通りにいかなくて苦しい。誰も得しない。
はみ出しを放置するという選択肢
「多様性を認める」なんて小綺麗な言い方をすれば、当然「おっ、そうだな」と納得できる。
しかし、実際に起こっているのは「一番身近な人が自分の考えを理解していない」ということであり、それを知りながらあえてそのままにするというのは、今の私にとってはすごく難しい。
寛大で、慈悲深く、勇気が必要な選択肢だと思う。
それでも、はみ出しをあえて放置することが、楽に生きるために必要だという。
自分の正義に反することをしていても。
何気ない言葉が必要以上に悪意的にとられても。
なんなら、夫が夫自身のものさしに合わせて私を曲げようとしていても。
そんな夫を曲げようとしてはならない。
放置するということは、理解するという意味ではない。
心から理解する必要はない。夫を曲げないように、自分を無理矢理曲げることもしない。
ただ、違いが存在していることを認める。それだけ。あとは何もしない。
どちらが正しいのかハッキリ決める必要はない。
理解してもらおうと説得したり、理解しようとして頭を悩ませたりする必要はない。
最初はかなり苦しいらしい。そうだろうな。
一番大事な人と理解し合えなくてさみしい気持ちになるという。
それがだんだん楽に感じてくるようになり、やがては、考えが不一致であっても愛情を感じられるようになってくるらしい。
はみ出しているからといって愛情がないわけではなく、その人なりに愛情を持ち、理解してくれていることに気付くらしい。
どんな感じなのか全く想像がつかない。
いきなり全部は難しいので、まずは些細な違いを放置することからやってみる。
疑問
かといって何でもかんでも許容すべきってわけではないのでは?
明らかに公序良俗に反することや、自分が不利益を被ることは直してもらうべきだと思う。
次回カウンセリングで質問する。